というわけで、『ワインの王』と『ワインの女王』の話。
いきなりだがこの話も諸説あり、正解があるわけではない。
しかも疎覚えの記憶で書いている。
詳しく知りたい方は歴史書を紐解いてもらいたい。
閑話休題。
オランダやベルギーを支配下に置いていたブルゴーニュ公国がフランスに吸収されたのは1477年のこと。
この豊かなブルゴーニュ公国が隆盛を極めたのには理由がある。
それが修道院だ。
シトー派の修道院がニュイ・サン・ジョルジュに設立されたのは1098年。
シトー派の修道僧は質素な生活を送りながら、今日、コート・ドールと呼ばれる銘醸地の基盤を作り上げる。
宗教的にも重要視されていたワインは洗練され、よりすばらしいワインへと変貌を遂げる。
この修道僧が造り上げたワインはフランス中で評判となり、やがて貴族たちの目に留まる。
こうしてブルゴーニュのワインは王室御用達のワインへとなっていく。
そして、同時期のボルドー地方。
12世紀のはじめからボルドー地方(を含むアキテーヌ圏)はイギリスの支配下にあった。
なぜなら当時、この地方を領地に納めていたエレオノールが結婚した相手がイギリス王家の血統を持つ人間だったからだ。
結婚相手であるヘンリーがヘンリー二世としてイギリス王に即位したことにより、エレオノールも王妃になる。
こうしてアキテーヌ圏は長い間イギリスに支配されることになる。
これにより、ボルドーワインはイギリスの酒商の支援を受け、より洗練されることになった。
大きくその成り立ちのことなるブルゴーニュワインとボルドーワイン。
かたやフランス王家に愛され、かたやイギリス王家に愛される。
勘のいい方は気付いたかもしれない。
フランス王家は代々男子が継承権を持つ。
そしてイギリス王家は多くが女系だ。
こうしてブルゴーニュワインが『ワインの王、ボルドーワインがと『ワインの女王』と呼ばれることになる。
—という説だ。
この後、アキテーヌ圏の支配を求めて100年戦争が勃発する。
ジャンヌ・ダルクが活躍するのはまだまだ先の話だ。
とはいえ、この問題。
わかりにくいため、ワインのイメージで逆にした方がよいとする議論があるのも事実だ。
その方が説明は楽でいい。
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